|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 松 : [まつ] 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) ・ 平 : [たいら, ひら] 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm ・ 給 : [きゅう] 1. (n-suf) wage 2. gift ・ 平家 : [へいけ] (n) the Taira (Heike) family ・ 家 : [いえ, け] 1. (suf) house 2. family
松平 忠昭(まつだいら ただあき / ただてる)は、丹波亀山藩の第2代藩主、豊後亀川藩主、豊後中津留藩主、豊後高松藩主、豊後府内藩初代藩主。一生系大給松平家3代。 == 生涯 == 元和3年(1617年)11月25日、亀山藩初代藩主・松平成重の次男として生まれる。兄・勝広が寛永8年(1631年)12月に没したため嫡子となった。寛永10年(1633年)、父の死去により家督を継いで亀山藩の第2代藩主となる。 寛永11年(1634年)、豊後亀川に移封され、寛永12年(1635年)に豊後中津留へ移封される。寛永19年(1642年)に豊後高松へ移され、明暦4年(1658年)2月24日、豊後府内へ2万2,200石で入ることでようやく定着した。 寛永14年(1637年)、島原の乱においては富岡城の守備を務めた。府内藩の藩政を確立するため、社寺に所領を寄進してその関係を親密にしたり、商人の力を借りて新田開発を行なうなどしているが、藩営ではなく商人の力を借りているところから、すでに藩としての財政基盤の脆弱さを露呈していた。 延宝4年(1676年)3月27日、長男・近陳に家督を譲って隠居し、元禄6年(1693年)9月12日に死去した。享年77。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平忠昭 (大給松平家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|